市政の動き−コラム「展望台」

No.2004 〈2019-01-13〉 防災でも牋打楡治サヨナラ

防災でも牋打楡治サヨナラ

 今から74年前のこと。愛知南部地震(三河地震)は、1945(昭和20)年1月13日午前3時38分頃、愛知県三河湾内を震源とするマグネチュード6.8最大震度7の内陸直下型地震が発生。中国・四国地方から関東地方に至る広い範囲で揺れを感じました。

地震そのものは、比較的小規模でしたが、震源が浅かったため、局所的に大きな被害。その大方は、三河湾沿岸の矢作古川の沖積地など矢作川下流の地盤軟弱地帯に集中しました。

 全体の被災死者は2137人、全壊家屋は7171戸、半壊1万1706戸にのぼりました。資料により被害の隔たりがあります。深溝断層は最大2辰鮴犬検沿岸部の低地で噴水・噴砂があり、井戸水の濁りや増減も見られたとのこと。小津波もありました。 

 刈谷の被災死者は、当時の富士松村1人、刈谷町1人、依佐美村12人と記録されていますが、他の資料は、入手できませんでした。

 この地震に限らず戦時報道管制下では、被害状況は、ほとんど伝えられず「隠された地震」「幻の地震」と呼ばれています。軍事政権で極秘扱いとされ、秘密主義から一歩も出ることがありませんでした。国民に情報が提供されず、住民は、混乱のなかで二重三重の苦しい生活を強いられました。

 戦争そのものの惨さと照らしあわせて、防災でも、戦争は許されないものであることをあらためて検証。
「平和こそ生活の基本」であり、軍備ではなく、平和とくらし・福祉にこそ、税金を使うべきです。軍費は、ムダ遣いの最たるもの。牋打楡治サヨナラ瓩海宗△い泙笋襪戮仕事です。

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