市政の動き−ホット情報

【13.05.26】 戦国ロマン「刈谷城築城480年」の水野家

なぜ「勝成」が主役か 不思議

 市は、戦国ロマンと「刈谷城築城480年」と水野忠政について、大キャンペーン中です。でもなぜ、主役が水野「忠政」でなく「勝成」なのでしょうか摩訶不思議なところです。
 そのあたりを、少し追ってみます。

マイナーな水野「勝成」 メジャーな水野「忠政」

 水野家の系図の一つ「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)によると、水野忠政の孫にあたるのが、水野勝成です。徳川家康の命により水野勝成は1600年父忠重の遺領3万石を継ぎ、譜代の初代刈谷藩主となったことから、市は、主役の座に据えたということのようです。
 しかし「戦国ロマン刈谷築城480年」というキャッチコピーですから、普通に考えれば、主役は、あくまで「水野忠政」であるのが素直なところではないでしょうか。
 言うまでもなく、水野忠政は於大の方の実父、於大の方は家康の生母すなわち忠政は家康の祖父です。
 市が、まち起こしのために売り出すとすれば、ここが肝心要であり、系譜からみれば由緒ある事柄ということであり、順当なはずです。言い換えれば、水野勝成よりも、はるかにメジャーなのが、水野忠政であると評価しなければなりません。

ここでも浮上する疑問 築城したのは「忠政」か

 こうした素人的な推測が成り立つとすれば、背景に何かしら理由があるのではないか、と勘ぐってしまいます。つまり「水野忠政が刈谷城を築城した」としてはみたものの、水野忠政が築城したかどうかが「謎」とされるなど諸説があり、刈谷市史においても「水野家の築城」という表現にとどめているからです。
 市は、諸説あるなかで、市長の「水野忠政の築城」と市史の「水野氏の築城」という二つの異なる見解が並んでいます。これらは承知のうえであり矛盾を氷解することができず煮え切らないままの人物設定という大キャンペーンになってしまっているのではないでしょうか。

町起こし素材と歴史的事実は遊離すべきか

 市のまち起こしは、大事なことだと考えます。しかし、史実研究の成果と相容れない見解を表白することは、混乱を招くなど疑義が生じてしまいます。まち起こしの素材と歴史的な事実とは、明確に遊離すべきではないでしょうか。
 歴史と言えば、本刈谷など5遺跡ある刈谷西部の縄文遺跡、重原地区の中条遺跡(発掘調査の中間発表あり)、井ヶ谷古窯群、鎌倉街道など市域にはさまざまな歴史があり、そこには記録に残りにくい庶民の生活がたくさんあるはずです。いわゆる英雄の歴史だけでなく、庶民の歴史についても、調査・研究し、後世に残してゆくべき大事な仕事です。

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